山本ゆうごブログ

山本ゆうごの仕事メモ

大人の読書感想文

Twitter上では時々読書感想文について言及されているのを見かける。読書感想文があるから本がキライになるのだとか、読書感想文で求められていることがわからないとか、基本的には「読み」「書き」の両面で、学校教育に対して不満を持ってる人が多い印象を受ける。

読書感想文のコツみたいなのも流れてはくるが、そのコツにしたがって作られた読書感想文のサンプルをなかなかみない。

大人になって読書感想文を書くとどうなるのかということを実験してみたいと思う。

あたし彼女を読んで

山本ゆうご

ケータイ小説というジャンルがある。ガラケーの時代に流行した。ケータイで書いてケータイで読むというスタイルだ。書き手も読み手も若い。「あたし彼女」は、第3回日本ケータイ小説大賞の大賞をとった作品だ。ケータ小説ブームの終盤である2008年の作品であり集大成といえるだろう。

ケータイ小説は、ちゃんとした小説に比べると、書き手もプロではないことも多く、日本語としてなりたってない点も多い。そもそもケータイのメールやブログでコミュニケーションをとっている延長線上なのだから、無理に小説の体裁を取る必要もない。しかしそれが通じるのは、ケータイでのコミュニケーションが読み書きの中心である若い女性のコミュニティでのみ通じることであり、部外者からは煙たがられている存在だと認識していた。本書もその一つとして色物扱いで読んでみた。想定通り書き出しから作者の知的レベルの低さを感じる。

まず、文章としてなりたってない。文節という概念さえない。「あたし」「アキ」「彼氏?」「まぁ」「当たり前に」「いる」「てか」「いないわけないじゃん」「みたいな」。この調子で文章が進む。小説として読もうとする人を遠ざけている。ケータイ小説という特性上、私小説の体裁が多いのだが、作者の知的レベルさえ疑いたくなる。こうやって、この小説は読者に不快感を与えながら進んでいく。

ケータイ小説と言えば、女子高生くらいが主人公であることも多いのだが、本作品の場合、主人公は23歳の女性であるというところも痛々しい。単に不快な言葉遣いをするというだけでなく、「23歳にもなって」この精神年齢であるということが恐ろしいのである。

基本的には、この知的レベルの低い主人公アキのモノローグで小説は進んでいく。バカなことばかりしている主人公を読者は蔑んで読み進めていく。しかし、アキはある日恋をする。恋をして初めて自分の感情を言葉として出すようにある。そこで初めて、アキの言葉づかいが変わり、この小説自体の文体が変わる。

やられた。

ケータイ小説特有の不自由な日本語」という世間からの印象を逆手にとって、作者も主人公も蔑まれるポジションからスタートするという「演出」だったのだ。携帯小説の歴史の中では一回しか使えない手法だろう。

気がつくと、知的レベルの低い主人公が恋を通じて成長するというストーリーに引き込まれている。主人公のアキは料理だってできなくても作りたいと思えるようなってる。何よりも自分の感情を表現しようとしている。マイナスからのスタートだが、成長しようとする人を相手に私達は応援はせずにはいられない。本作品をまとめてしまうと、下の下の女の子が下の上になるだけのサクセスストーリーなのだが、世界の中のその小さな出来事を部外者である私達が心から応援できるような構成になっている。

アルジャーノンに花束をという小説がある。知的障害をもつ主人公の日記で物語が進んでいく。この作品も、主人公の知的レベルがそのまま日記の文体に現れることで、読者を引き込んでいく。後から見れば、そういう手法を使っているだけなのだが、ケータイ小説という分野で出会ったことで大きく足元を救われた気分だった。

ケータイ小説ブームのピーク時には書店の文芸ランキングの大半がケータイ小説の書籍化であり、横組み左開きの小説が書店にも並んでいた。今では一時のブームは過ぎ去ったが、書き手と読み手が満足する形で売られてはいる。ケータイ小説特有の文体もこなれてきて、読者に驚きを与えるということもなくなってしまった。もはやそういうライトな小説として世間に受け入れられたと言ってもいい。その中で「あたし彼女」は、ケータイ小説という分野が世間には完全には認められてなかった時代のマイルストンとして記録していい。歴史として読んでおくべきだと思う。